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ある夜の出会い 油彩 15P
カフェと螺旋階段
遠い異境の地へと旅に出て、様々な普段見慣れない風俗や習慣に接するとき、その期待と緊張感とを最も良くほぐして呉れる場所と云ったら、旅館と飲食店の右に出るものはいないであろう。そうしてまた、旅先の印象を最も強く決定付けるものもまた、意外にもこの二つの存在であったりするものである。
今から二十年ほど前に初めてフランスの土を踏み、巴里に親しみ始めた私にとっても、巴里で初めて入ったカフェと、初めて泊まった宿屋(ホテル)は、なんと云っても忘れ難い思い出となっている。まだ、学生だった私は、見知らぬ遠い旅先で、常に懐具合を気にして行動しなければならなかったが、何よりも十代の頃から憧れ続けて来た藝術の都の空気を呼吸していると云う事だけで何もかもが我慢出来、また満ち足りた心持ちであったのである。
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私は、リュクサンブール公園に近いムッシュー・ル・プランス街41番地の安宿、ステラを最初の旅宿に選んだ。宿賃は一泊百フランにも満たないほどで、中級のカフェやレストランの昼の定食代にもならないくらいの値段だった。木の螺旋階段は、もう何十年も手入れをしていないらしく、それぞれの段の中央が擦り減って、何れも目を引くほど彎曲していた。寝台には南京虫が蠢動しており、寝付きが悪かった。また廊下で擦れ違う宿泊客たちが普段何をして暮らしているのか皆目検討もつかない感じの人々で、或る時など、或る人が流しで小用を足すのを見かけたほどだった。それに何処を何う通ってくるのか、小水の臭いが暖房のスチームを伝って私の部屋まで上って来て漂いだす事があり、そんな夜には、殊に寝付かれなかった。
あのころ、年老いた母とその息子の二人でこの宿屋は経営されている様子であったが、今もあの二人は元気でいるかしら。
初めて入った思い出のカフェは、カフェ・ド・クリュニーである。サン・ミシェル大通りとサン・ジェルマン大通りが交差する角に位置し、カルチェ・ラタンの中心で独特の存在感を放っていた1869年開業のこのカフェは、然し二十世紀の末も押し詰まった時分に閉店し、今はその名を申し訳程度に入口に掲げてはいるが、中はチェーン店のピザ屋とサンドイッチ屋が半分ずつスペースを分けて共同経営している。赤い廂を大きく張り、堂々としていた曾てのこのカフェの威容を知る者にとっては、何とも寂しい限りである。が、けれども、二十年前に、このカフェ・ド・クリュニーで初めて知った、巴里のあのほろ苦いエスプレッソの味と香りだけは、生涯、私の記憶から消え去る事はないであろう。
※年間3ヶ月をパリで過ごす洋画家・宮崎次郎さんがパリの街と人々への愛着を綴る新連載。全12回。
みやざき・じろう
1961年埼玉県生まれ。95年昭和会賞受賞。
97年文化庁派遣芸術家在外研修員として渡仏。
現在、無所属。
11月に銀座・ごらくギャラリーにて個展開催予定。
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