洋画家・宮崎次郎は父も祖父も医師という家系に生まれた。そのことが後の二人の恩人に出会うきっかけを与えた。
中学2年生のとき、画家になりたいと夢見た宮崎さんに対して、父親は医師になる道を無理に勧めなかったという。代わりに、穏やかな風景画を日展と光風会に発表していた洋画家・渡辺武夫を紹介してくれた。戦後のこと、祖父・宮崎淳さんが地元・埼玉の浦和の医師会に声をかけて、渡辺の渡仏を支援した縁で繋がっていたからだ。
「美術の高校を受けたいという私に、渡辺先生は『飯が食えるかどうかは分からないが、絵描きにはなれる』と背中を押してくださいました」
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高校・大学を美術学部で過ごし、銀座のグループ展に出品したところ、突然やってきた渡辺さんは「これでは食っていけないから」と別の画廊を紹介してくれた。それくらい本気で心配して面倒をみてくれた。
そのとき盟友の荻太郎さんも紹介してくれたという。
「荻先生のご自宅にも伺うようになりました。私がパリに在外研修に行くときには壮行会を開いてくださり、パリにも奥様と一緒に来てくださって、美術館やカフェをご案内させていただきました。偉ぶるところがなく、誰にでも率先して分け与えてくださる洗練された人格者でした」
2004年の画集に荻さんが寄せてくれた一文、『人間とは、心とは、という問題を自由な発想で、君自身の表現で展開すればいい』が宝物だという。
二人の恩人の言葉通り、宮崎さんは哀愁と郷愁に満ちた独自の世界を展開し、洋画家として自らの道を歩んでいる。
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